書壇のこと

僕は書壇出身者。書壇を離れた人って「思うところあって」らしいけど、僕はそうでもない。

書壇で師範を取得したのは、僕が大学卒業の年だった。23になる年か。

団体は新聞展なんかも開催してて、あの展示この展示となんとかひと通りこなしての師範だった。で、どうするか?大学を出たばかりの僕に教室開催はなかなか考えられなかった。何より教える気が無かった。団体には師範取得後も今何年目、あの展示この展示と、これまでの延長線で活動している人たちもたくさんいたし、先生方も何人かいた。しかしすでに僕は書壇カラーにどっぽり漬かっていた。このまま何年も先生のコピー、書壇のコピーを作るより、もっと他のことをしてみたくなった。そう、あと五十年同じようなことを続けるより、ガラッと何か新しいことに挑戦してみたくなったんだ。

当時の書壇には、今よりもっとやんちゃな上に気難しい僕を育ててくれた、何より受け入れてくれた場として、心から感謝してる。書壇を学校のような教育の場と考えれば、師範は卒業証書に過ぎず、実際そうだった。先生は早くからお手本なしで書くことを教えてくれたけど、それでも、実際自分で一から書こうとすると、課題作品をこなすことしか知らなかったことを思い知らさせた。学校で使った筆、紙のサイズ、墨…それしか使えなかった。後に道場に掲げる書を依頼されることになるのだが、どうサイズを割り振ればよいのか、そのサイズにどの筆で書くのか、そんなことさえ手探りだった。しかしそこに行き着くまでにはある程度学んでいる必要がある。体系的にまた見て学ぶにはやはり誰かに教わるのが一番早く、その制度としての書壇は、一定の役割があると思っている。

書壇を離れ、僕が思い悩んでいたころ、井上有一を見いだした海上雅臣氏と話せる機会があった。と言っても、ウナック東京で開催されていた展示を見に行ったところ、お茶を出して色々話してくれた。

井上有一は書でも美術でもないと言われて孤独だったことを教えてくれた。そして団体もせいぜい五年くらいやったら十分だから、あとは自分の表現をやっていきなさいというようなことを仰られた。もちろんその言葉は、その後の活動に大きく影響した。

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