書と美術とデザインと、人生

たくさんの筆文字作家や書家がコマーシャルユースの文字を揮毫している中、自分の作品制作ばかりでほとんどしてこなかった。しかし最近は色々なきっかけがあってそちらに向いている。少し話は遡るが書いておこうと思う。

 

書と美術の歴史を書の立場から追うと、書は(中国から入ってきたとはいえその後日本で独特に発展した)日本のものであるという認識なのに対し、美術は近代に西洋から入ってきたものとして見られている。「書は美術にあらず」論争を当時の書家達は、(西洋から入った)美術と同じでなくて結構と冷ややかだったという話もある。恐らく美術の立場からしても理があり、水掛け論になるだろう。論議は抜きにして歴史的に書と美術の間には壁がある。それは今でも。

十年前、美術のアーティストたちの共同アトリエに入った。当時住んでいた東京のワンルームでは制作に押されて食べる場所も寝る場所もままならなくなって、物理的にアトリエが必要になって探した結果、運良く入れたのだ。そこには多いときには35人程のアーティスト達がいて、大学の教授とも出会えた。彼らがたくさんのことを教えてくれたおかげで、美術的な視点を持つ作品やインスタレーションが生まれた。この、壁と思われていた領域を渡ってしまえば、発展しかなく、自分を失うのが怖かったり、これまでやってきたことが無くなってしまうのではないかという恐れは無意味だった。単に出来ることが増えただけなのだ。

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そうして、今またたくさんの偶然という名の必然と思える出来事の中、デザイン的な方向に振れている。

あえて言えば、美術界はデザイン的なものや商業主義的なものからは、ある部分では呑まれつつもそこから切り離そうとしているところがある。ここにも壁のようなものが見える。しかし一方でお金と作品を積極的に結びつけていくアーティストたちもいて、実は彼らが今の美術界を牽引していたりする。

自分の人生を歩めばいい。その結果領域横断的になったとしても、今ある肩書きにない活動だったとしても、それで良いではないか。むしろ新しいことを進めていくことにわくわくする。自分の向こうに誰もいない草原を走るのは気持ちいい。過去の偉人達の生涯を、とりわけ好きな書家の生涯を見るたび、好きなことをやりたい放題やった人生だったのではないかと思う。自分にとってやりたいことを正直にやることが、結果として自分にも世界にも最も良いように思う。そういうわけで、自分の羅針盤に従う。

 

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